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モダン民藝の立役者に聞く! 激動の40年と、未来へ続く挑戦。

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注目の窯元に出向き、民藝の「これまで」と「これから」について伺うインタビューシリーズ「ミライノミンゲイ」。

7回目は、「染め分け皿」をはじめとする“モダン民藝”で、全国的に人気を集める「因州中井窯(いんしゅうなかいがま)」。その作風を体現するかのようなモダンな感性の持ち主、3代目の坂本 章(あきら)さんに、彼が駆け抜けた激動の40年についてお話を聞きました。

→Vo.01小鹿田焼・坂本浩二さんのインタビュー記事はこちら https://edit.roaster.co.jp/edit/9669/

→Vo.02小鹿田焼・坂本拓磨さんのインタビュー記事はこちら https://edit.roaster.co.jp/edit/10776/

→Vo.03小鹿田焼・坂本創さんのインタビュー記事はこちら https://edit.roaster.co.jp/edit/11469/

→Vo.04備前焼・木村肇さんのインタビュー記事はこちら https://edit.roaster.co.jp/edit/11416/

→Vo.05いぐさ職人・須浪隆貴さんのインタビュー記事はこちら https://edit.roaster.co.jp/edit/11571/

→Vo.06雲善窯・土屋知久さんのインタビュー記事はこちら https://edit.roaster.co.jp/edit/11703/

坂本 章さんプロフィール

1965年、鳥取市河原町生まれ。1945年に祖父が築窯し、その後、父が受け継いだ「牛ノ戸焼中井窯(1996年より因州中井窯)」に、高校卒業後の18歳で入る。1995年に「日本民藝館展」に初入選し、以降連続入選。2000年より「柳宗理ディレクション」の制作を始め、「日本民藝館展・日本民藝館賞」など名だたる賞に次々と輝く。20236月には、青瓷制作で鳥取県無形文化財「陶芸」保持者に。「鳥取県伝統工芸士」でもあり、まさに鳥取民藝を代表する存在。

「因州中井窯」の代表作のひとつ、3色の染め分け皿。黒・白・緑の絶妙なカラーリングで三等分に染め分けられ、境目部分の色のゆらぎも趣深い。

民藝ブームのずっと前。始まりは、苦境の時代から

鳥取市の中心部から、車で約30分。河原町・中井地区の里山に窯を構える。到着すると目に飛び込んでくるのは、「中井窯」と記された2色の陶板。窯を代表する染め分けのデザインが、工房のあちこちに施されている。

今や、民藝好きなら知らない人はいない存在となった「因州中井窯(以下、中井窯)」。「染め分け皿」や「柳宗理ディレクション」を代表とするスタイリッシュな作風で注目を集め、セレクトショップでも即完状態。現在は、「焼いても焼いても、制作が追いつかない状態」というほどの人気ぶりだけれど、「僕が始めた頃を考えれば、状況は180℃変わりました。物が売れない時代を経験しているので…」と、3代目の坂本 章さんは振り返ります。

「高校を卒業して窯に入ったのが、今から40年前の18歳のとき。当時は、民藝なんて光も当たらないような時期で…。父親を指導してくださっていた吉田璋也先生(鳥取の新作民藝運動の指導者)もお亡くなりになっていて、うちの窯も、鳥取民藝自体も、かなり苦境の時代でした」

経済的にも苦しい状況の中、父親と共に10年以上、ひたすらに土と窯に向かう日々。

転機は、章さんが30歳になった頃に突如として訪れます。

インタビューは、工房に併設された広々とした展示室にて。等間隔に整然と作品が並ぶ様は、まるでギャラリーのよう! 3代目の坂本 章さんは、話し方や着こなし、所作のひとつひとつにも、凛とした清潔感をまとった人。敷地全体に漂う澄んだ空気感は、きっとそんな章さんの人柄が生み出しているに違いない。

「視点を変えて、現代の民藝を」30歳、大きな一歩を踏み出す!

時は、1995年頃。「苦境にある鳥取民藝を、もう一度盛り上げたい」…そんな想いから、にわかに周囲が動き始めます。その鳥取民藝再興の先導役として、白羽の矢が立ったのが章さんでした。

「これまであった素材を変えるのではなく、鳥取にある材料と職人はそのままにして、視点を変えることで“現代の民藝”を作っていこうという動きが始まっていて。僕がその時、30歳。比較的若いということもあり、鳥取民藝のためにやってくれないかと声がかかったんです。いきなりそんな重責を負わされても、何の自信もないけれど、でも、やってくれるかと言われれば、僕としては全国に挑戦できるかもしれない夢のような機会ですし、やらないわけにはいかなかった。技術的にもおぼつかない中、どんどん進んでいく施策を必死にこなしていきました」

工房にもお邪魔させていただく。チリひとつないスッキリとした空間に、窯焼きを待つ器たちが美しく整列していた。

指導を受けながら“現代の民藝”を作り続けること、100種類以上。作っては変え、作ってはまた調整して…を何度も繰り返しながら、少しずつ“新しい中井窯の形”ができ始めます。「手を動かすことと、頭を働かすことによって、技術を磨き続けました」。そうしていると、自然と内外から評価されるようになり、欲っせずとも次々と受賞を重ねることに。

「それまで公募展なんか出品したこともなかったのですが、30歳のうちに『日本民藝館展』に初入選して、それ以降、入賞を重ねていくようになりました。その2年後には『日本陶芸展』にも初入選し、こちらもその後、連続入選をさせていただきました」

転機から数年にして、次々と大きな賞を取るようになった章さん。けれど一方で、世間の民藝ブームはいまだ起こっておらず、「作っても、評価は悪くないけど、売れない」という時代が依然としてあったそう。そんな折に、2度目の転機が到来! かの有名な、柳宗理との出会いが訪れます。

初代である祖父の時代から2000年代までは「登り窯」を使用していたけれど、現在は「灯油窯」で。「うちの緑色の釉薬が、灯油窯で焼いたときに一番きれいに出るんですよ」

今はもう使われなくなった「登り窯」の前には、2色の染め分け皿に入れられ、お供え物が静かに供えられていた。

窯の知名度を一気に全国区にした、柳宗理との出会い

柳宗理といえば、日本のデザイン界におけるパイオニア的存在。民藝運動の提唱者・柳宗悦を父に持ち、自身も「日本民藝館」の2代目館長を務めるなど、民藝分野でも大きな功績を残した人。

そんな柳宗理と中井窯との交流は、実は、章さんの父の時代から。章さんがまだ産まれる前の1960年頃、共に新しいデザインに取り組むも、なかなか売れずに制作は中止に…。ところがそれから約40年後の1999年に、柳宗理が改めて中井窯を訪れ、制作の再開を求めます。

「その頃は、代が代わって僕が主に制作をしていたので、『じゃああなたが作ってください』となりまして。柳宗理先生の指導のもと、それまでうちになかったデザインを新たに制作することになりました。それが現在、『柳宗理ディレクション』と名付けている器たちです」

こちらが「柳宗理ディレクション」の代表的なお皿。真ん中でくっきりと分かれた2色の「染め分け」と、「伏せ合わせ」という、フチ部分の釉薬を抜く技法を組み合わせたモダンな1枚!

こうして2000年に発表された「柳宗理ディレクション」は、民藝のイメージを覆すスタイリッシュなデザインと、柳宗理の知名度も相まって、一躍大ヒット!

「納品するやいなや、『またこれが欲しい』と言われて。そうこうするうちに、あっちでもそっちでも『これが欲しい』と言われ始めるようになりました。そこから一気に中井窯が全国で知られるようになったのです」

同じ年にはなんと、「BEAMS」の「フェニカレーベル」(クラフトとデザインの橋渡しをテーマとするレーベル)でも、「柳宗理ディレクション」の販売がスタート。これまであまり民藝に触れてこなかった若い世代にも大きく注目され、昨今の民藝ブームにつながるトレンドを作りました。

「物が売れなかった時代から、急にドンと売れる世界に激変したんです。小さな工房で手作りしていて、ましてや当時、僕ひとりしか作っていない中で、この変化は本当に劇的でした」

章さん自ら、中井窯の真骨頂とも言える「染め分け」の作業を実演! 釉薬で満たされた甕(かめ)に、手持ちで器を浸して釉薬を付けていく。器を引き上げれば、その境目は驚くほど真っ直ぐ! まさに熟練の感覚こそがなせる技。

変えることを恐れず、新しい形の民藝につなげていく

中井窯にとって、急展開を迎えた2000年。当時35歳だった章さんは、その劇的変化をどう捉えていたのでしょうか。

「当時、僕もまだ若かったので、いわゆる“民藝然”としたものへの反発心もあって…。とにかく『かっこいい民藝を作りたい』っていう気持ちが強かったんです。地方のお土産品みたいなイメージを覆したかったし、例えば都会のマンションにもしっくりなじむような、スマートな器を作りたいと思っていた。だから、モダン民藝や、柳宗理先生のデザインのものを作るようになったことは、偶然のようで実は必然で、僕自身の性格にも合っていたんだと思います」

2度の転機を経た章さんだけれど、中井窯として、作風に何かルールがあるのかと問えば、「何もないです」とキッパリ。

「何もないからこそ、変えてこれたんですよね。変えることへの抵抗も、まったくなかった。実は昔は、緑色も今みたいな明るい色じゃなかったんですよ。もっと“民藝然”とした重厚な色だった。でも重い色って、気持ちが明るくならないでしょう(笑)? 若い頃に、民藝が売れない時代を経験しているからこそ、変えていかないといけないという想いがありました」

当時、柳宗理というデザイナーと組むことに対して、「それは民藝じゃない」という声も多くあったに違いないが、「純粋に、きっちりとした想いで物を作ることができれば、それは決して民藝と違う物ではなくて、それも新しい形の民藝につながるんじゃないかって、僕は思っていたんですよ」と話します。

18歳で中井窯に入って、その名が全国区となるまで約17年。「世に出るまでに、職人としての技術や、美しさがどこにあるのかという“物の見方”を、僕なりにしっかり勉強して基礎ができていたから、いきなり当たったときにも対応できたんだと思います」。苦渋をなめた下積み時代が、しっかり今の礎に!

手で作った証を、わからない程度にちょっぴり残して

いわゆる民藝の窯元とは、歴史も作風も独自路線をいく、中井窯。「多くの民陶の人の作り方とは、かなり違う材料や道具を使っていますし、そもそも手仕事への考え方が少し異なるかもしれません」と、章さんは言います。「だから、中井窯としてのルールはないけれど、僕なりのこだわりはありますね」

「人間であれば、手仕事で物を作るとき、自然に、手が通った跡ができる。これ、当たり前なんですよね。当たり前なんですけど、僕はこの手跡がどうも邪魔に見えてしまって、すっきりさせたくて、そういうものを消してしまうんです。でも、すべて消すのではなく、ちょっぴり残す。ぱっと見は、ろくろ目とかは見えないくらいまで消して、でも手で作った証として、ちょっぴり。それも、わからない程度に残すっていうニュアンスが、僕なりのこだわりです(笑)」

「そのこだわりが、いいのかどうかはわかりませんよ」と章さん。「ただ、うちのこの色やデザインに手跡を残すと、僕が違和感を持ってしまうので。全国基準で考えても、僕の作り方は当たり前じゃないと思います」と笑う。章さんが抱く独特の“違和感”や、美的センスが、中井窯の作風を唯一無二にしているのだ。

「自分の夢は諦めない!」“二刀流”の挑戦が動き出す

2000年の「柳宗理ディレクション」発表後は、「鳥取県美術展覧会・鳥取県知事賞」「日本民藝館展・日本民藝館賞」「日本陶芸展・優秀作品賞」と、次々と栄冠に輝いていく章さん。2004年には「鳥取県伝統工芸士」にも認定され、気づけば名実ともに、鳥取民藝を代表する存在となりました。

「その当時、僕は40代前半。数々の栄誉もいただき、目標をクリアしたがゆえに、ではそのあとどうするのか?という気持ちが強くなりました。僕にもまだ可能性があるなら、挑戦を諦めたくない。もともと僕、焼き物を始めるにあたって、職人ではなく、作家になりたかったんですよ。だから、民藝の分野で名が出ても、作家へのあこがれはずっと持ち続けていました」

そんな想いから、なんと章さん、民藝とはまったく違うフィールドである「日本伝統工芸展」への挑戦をスタートします。「最初は、民藝の人たちにバレないようにこっそりと、でしたけど(笑)」

40代からの新しい挑戦として取り組んだのが、「青瓷(せいじ)」の制作。中井窯で作る民藝の器とは「なにからなにまで違う」のだとか。「一緒なのは、ろくろで作っているってことぐらい。あとはもう、釉薬も、窯の炊き方も違うし、制作への考え方もぜんぜん別物です」

「とはいえ、最初は落選続きでしたよ…」と、振り返ります。「せっかく民藝のほうで、大きな賞をたくさんいただいても、こっちでは入選さえしないのか…と現実を突きつけられた気分でした。『日本伝統工芸展』では4回入選すると、正会員というポジションになれるのですが、もし50歳までに正会員になれなかったら、もうそれは自分に合わなかったのだと思って、民藝の仕事一本で生きていこうと決めて。でももしなれるのなら、自分の可能性を自分で消すのは嫌だったので、挑戦したいと思ったんです」

その結果、5回の落選を経験しつつも、その後に見事、4回の連続入選を果たし、ギリギリ50歳で正会員に! まさに有言実行。職人の顔とはまた違う、作家としての章さんの意志の強さが伺えます。

独特の存在感を放つ、章さんの青瓷作品。「民藝の手法は、ほとんど青瓷には応用できないので、失敗を繰り返しながら10年以上、試行錯誤して続けています」

「もちろん生活するには、中井窯としての器も作らなきゃいけないし、でも自分の夢は捨てたくない。僕にとって、民藝と青瓷はまったく違うステージ。いわば“二刀流”ですね」と、章さんは言います。

「でもかつて、柳宗理先生のデザインのアウトラインの美しさを、一生懸命自分のものにしようとした経緯があって。だからこそ青瓷を制作していても、形状の美しさを考えるときに、民藝の経験は充分に生かされていると思います」

30代から40代、そして50代へと、あくなき挑戦を続けて、現在58歳。今年6月、章さんは、青瓷の制作で鳥取県無形文化財「陶芸」の保持者に! 民藝分野に引き続き、青瓷制作においても、誰もが認める存在となったのです。

伝統に即した手仕事の美しさを、次の世代へ

現在、章さんと共に窯を守るのは、4代目となる長男の宗之さん(と、写真奥に写る、宗之さんの奥様!)。まだ20代の若さだが、京都の研究所でしっかりと修業を経験して中井窯に入った。「青瓷の制作も、釉薬の調合や焼成方法の変え方など、実は息子のアドバイスもあってできてるんですよ」

最後に、激動の40年を経て、章さんが今考える「未来の民藝」とは?

「今、民藝に限らず、どんどん新しいデザインが出てきていますけど、新しいものって結局、いずれ古いものになってしまうんですよね。だから、奇をてらった新しさではなくて、伝統に即した美しさこそが、ずっと残っていけるんじゃないかと僕は信じています。今、まさに民藝ブームで、これから民藝はどうなっていくのか…と危惧する声もありますが、何よりも、自分が納得できる物を作って、自信を持って発表して、そして皆さんに見てもらえることができれば、何も恐れることはないと思っているんですよ。このAIの時代に、だからこそ手で作ること、手から生み出される物の意味を考えながら、僕は僕が考える“いい民藝”と“美しい物”をきっちりと作り続けていく。逆に言うと、それしかできることはない。中井窯なりの民藝の形を、ひとつの基準として見てもらえればありがたいなと思います」

章さんと、奥様(一番右)。そして息子の宗之さんと、その奥様(左から2人目)。そして職人さん(一番左)の合計5名体制。たった5名で、全国規模の中井窯を日々動かしているとは! 「そのうえ僕は、青瓷の制作もしているので、仕事がなかなか追いつきません(笑)」と章さん。

「まだまだ先のことかもしれないけれど、このまま、自分が納得する物だけを作り続けて、自分の人生が良かったなと思いながら終わりたい。そうでないと、手仕事を生業としている意味がない」と章さんは言う。柔和な笑顔の奥に、ぶれない信条。その想いは確実に、次の世代へと伝播しているはずだ。

企画/大崎安芸路(Roaster) 写真/藤井由依 取材・文/乾 純子(Roaster)


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